江戸後期、北の小国、海坂の地。
うららかな春の花曇りのもと、ひとり野道を歩く女性がいる。名を野江。
野江は若くして、すでに二度の不幸な結婚を経験していた。
最初の夫には病で先立たれ、二度目の稼ぎ先である今の磯村家は、自分が育った浦井の家とはまるで世界が違っていた。武士でありながら蓄財に執着する夫と舅、野江を「出戻りの嫁」と蔑む姑。しかし二度の失敗は許されない。そう心に言い聞かせ、野江は嫁として懸命に耐え続けていた。
叔母の墓参りの帰り、山道で薄紅色の花をいっぱいにつけた一本の山桜に出会う野江。その美しさに思わず手を伸ばすが、枝は思いのほか高く、花には届かない。そんな野江の背中に突然、男の声が響いた。「手折ってしんぜよう」
振り返る野江。折った枝を差し出すその武士は、手塚弥一郎と名乗った。
野江はその名に驚く。それは彼女が磯村に嫁ぐ前、縁談を申し込まれた相手だった。密かに見初めてくれていたとの話だったが、母一人子一人の家と聞き、会うこともなく断ってしまったのだ。 |